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清洲城

清須城の歴史

目次

第1話:清須城って何?
第2話:初代城主 斯波義重(しばよししげ)
第3話以降は執筆中

第1話:清須城って何?

清須は、鎌倉街道と伊勢街道が合流する「交通の要」でした。 北へ向かうも南に向かうも、清洲は重宝され、誰もが手に入れたい場所でした。
桶狭間の戦い、関ヶ原。織田信長や福島正則はこの清須から戦へ出向き、また本能寺の変の後に行われた後継者を決める会議もここ清須城を舞台に繰り広げられました。
徳川義直の頃には、清須城下は人口6万人を数える賑わいを見せており、朝鮮通信使の記録には「関東の巨鎮」「天下の名城」と讃えられた歴史ある素晴らしい城です。
そんな清須城の歴史を、代表的な城主をテーマに紹介します。

第2話:初代城 斯波義重(しばよししげ)

清洲城は、応永12年(1405年)、幕府官領、斯波義重により尾張守護所である下津城の別邸として築城されました。斯波氏の守護国、尾張・ 遠江(とおとうみ) ・越前の中でも義重は特に尾張の経営に力を入れ、尾張 国衙領(こくがりょう) <国司が政務を執った役所の支配下にあった土地>に対しては織田氏・甲斐氏・二宮氏などの重臣を給人とし、年貢を徴収する体制を設定しました。 また尾張国内の国人を被官化させるなど、尾張の守護領国化を推し進めました。その他にも寺社勢力との関係改善や強化にも努めています。
応永25年(1418年)8月10日、義重は突然病に倒れ、まもなく四代将軍足利 義持(よしもち) の見舞いも受けましたが、同月18日に死去しました。享年48歳。
時は流れ1476年、斯波義重の孫である 義敏(よしとし) の時代に起きた戦乱にて消失した下津城に代わり、それまで守護所<守護が居住した館>下津城の別郭だった清洲城が、守護所として機能するようになりました。その後、同族である斯波 義廉(よしかど) が支配をするようになります。義廉は織田大和守を守護代として置くことを決めます。
やがて織田信秀(のぶひで)<織田信長の父>が斯波三奉行の一人となり、清洲奉行として清洲城を居城とします。信秀が古渡城に移ると、織田信友(のぶとも)が入城。 この織田信友のお話は次回に。
出展:ウィキペディア他