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清洲城

清洲城の「今」

清洲越のあと

慶長15年(1610年)からの清洲越で清洲城が取り壊された後、東西約45m南北約123m(一説には142m)で約5500㎡1670坪(現在の愛知県庁が約4600㎡)あった城郭跡は田畑に開墾され

文政9年(1826年)には、東西約38m南北約35mで約1330㎡400坪までになった。

天守台址は尾張藩が清洲城址として保存し、天保年間(1830年~1844年)に、清洲代官朝田藤三郎が城跡周辺に石垣を、次の代官荒尾喜蔵が周囲に松樹を植え崩潰を留め史跡保存に努めた

弘化年間(1844年~1847年)頃
清洲の文化人、武田晨業が「右大臣織田信長公古城跡」を建立

文久2年(1862年)
林恪が、「清洲城墟碑」を建立

清洲城の明治から大正

●明治初年(1868年)頃
この清洲城跡(通称御城山)一帯は御料地として宮内省が管理した

●明治19年(1886年)
この城跡を貫いて東海道線が敷設され、今のJR清洲駅より1km程名古屋寄りに清洲駅が置かれる(明治39年廃止)

●明治23年(1890年)
武田柯笛の句碑「なかぬにもかきらす午時のほととぎす」が
翌々年に「大地震記念碑」が城跡に建てられる

●明治30年(1897年)
地元有志武田晨正・林良泰・櫛田利和等により、古城跡の規模を拡大し、その存在を認めさせる為に「清洲古城跡保存会」を設立した(会員23名)
御料地払下げの請願を提出するが受理されず、拝借願いを出して
明治31年から20年間の無料貸し渡しを受ける

●明治34年(1901年)
小亭を築成(大工宮田吉兵衛)

●明治38年(1905年)
周囲に石柵・石垣・生垣を営築、石燈籠一対(有志婦人建立)

●明治39年(1906年)
武田晨正等が燎籠を建立

●明治44年(1911年)
燈明講中が漱水盤 などを作り、寄付や画会で資金を集め堤防までの陸田五段を買収して付属地とし、観賞用樹木を植えた

●大正6年(1917年)
信長公に正一位が追贈される

●大正7年(1918年)
松井茂愛知県知事によって提出された、清洲城跡を補修して清洲公園を造成するという案が議会で可決される

●大正9年(1920年)
3月20日着工

●大正11年(1922年)
10月25日竣工

清洲城の昭和から平成

●昭和11年(1936年)2月11日
信長公銅像建立除幕式

●昭和17年(1942年)9月29日
戦争慰霊碑群が豊山村豊場から遷される

●昭和19年(1944年)6月2日
信長公を祀る小社が京都建勲神社より勧請される

●昭和38年(1963年)
公園の一部が新幹線用地として買収される

●昭和39年(1964年)
清洲城建設と城跡拡張保存の募金条例ができる

●昭和42年(1967年)
桜祭り始まる

●昭和48年(1973年)
濃姫輿入れ行列始まる

●昭和62年(1987年)10月
はなのき広場および遊歩道の整備着工

●昭和63年(1988年)4月
清洲公園の対岸の地に清洲文化広場の整備の一環として、清洲城天主閣の再建着工
芸能文化館を建築して清洲城黒木書院と芸能の間を設けると共に、大手門等の建築と日本庭園・土蔵の整備などが行われる

●平成元年(1989年)
旧清洲町の町制施行百周年記念事業の柱として、清洲公園・城址・五条川対岸町有地一帯の整備が進められる
4月14日天主閣がそびえる清洲文化広場の竣工式が挙行

●平成3年(1991年)1月
清洲ふるさとのやかたがオープン

●平成9年から10年(1997年から1998年)
公園整備工事で信長池が埋められ芝生広場となり、戦争慰霊碑群は少し移動されてまとめられる

清洲城天主閣の概要

清洲城天主閣は、鉄骨と鉄筋コンクリート造り三層四階建てで、延床面積773.01㎡あり、四階の展望室からは、濃尾平野が一望でき、かつてこの城が尾張の中心であった事が実感できます